J's 60年代 Band Story


(1)

僕は 1965年に 始めて バンドを自分で 結成しました


・・こうやって書こうと思うと 書きたいことが 沢山浮かんできます

頭の中で いろんな思い出が グルグル回ってる!!


少しづつ書いて行きます

きっかけは 高校のとき 文化祭で 下級生が バンドを

やってまして 当時は 勿論 ほとんどが ベンチャーズでしたが

彼等は プラス ボーカルもやってまして

その曲は スティーブ・ローレンスの「悲しき足音」でした

「こりゃ‐ かっこいい 俺もやろーっと」

と言うことで 高校を卒業した直後の 春休みに メンバーを集め始めました

高校―大学は 同じ学園の私立でしたので 

受験無しで同じ大学に行く仲間達です


練習は メンバーの家です 僕は ドラムを担当してました

問題は 二つありました

ひとつは エレキ・ドラムの大きな音

もうひとつは エレキ・ロック イコール 不良 という 世間の目

二番目は 気にしなければ 済むことですが 練習した家(我が家でも

しましたが)の近所では 親がいろいろ言われてたみたいです

音は 一応アンプは使いましたが ほとんど音を絞り 

ベースは聞き取れる程度 音を出さねばならない 合わせて演奏して

いるうちに 他のメンバーのの音が うるさくて さりげなく 自分の

ボリュームを上げる 気がつくと いつのまにか 

全体で かなりの騒音になっている 電話が鳴る お隣から「うるさい!!」


また 音を絞って…… 電話が鳴る「うるさい!!」

の繰り返しでした 

楽器は 「グヤトーン」っていったか? ドラムは 「パール」の

勿論 最初は 一番安いもの  余り種類も無かったと思います

曲は ビートルズのコードのやさしい「恋する二人」「マネー」

IF I FELL」・ベンチャーズ・やっているバンド名は 「スコーピオンズ」

「走れパトカー」なんかご存知? 

ピーター&ゴードンの 「愛なき世界」もやりました


そう言えば ドラムのシンバルに ヒズル(今は無いのかな?)が 

ついているものは高価で買えなかったので 

自分で シンバルの周りに 穴をあけて針金を ぶら下げてました 

これをつけると 音が伸びて 上手く聞こえる


メンバーは 当然 というか 楽譜なんか 読めないし 読む気も無いし

楽譜も無いし レコードから 耳で 聞き取るスタイルですから 

レコードは傷・雑音なんでも有りで 

使えなくなったレコードは 太陽に当てたり 熱を加えたりして 

お椀状にして 中央の穴を詰めて 灰皿にしたことも有りました


2週間ほど ほとんど 毎日 練習しているうちに

 当然 人前で演奏したくなってきました



(2)

当時 ロックをしていた連中は 同じく流行っていた フォークとか

加山雄三もそうですが 何故か 馬鹿にしてまして

「フォーク? ふん!」なんて感じでした 

大学時代は 僕は放送演劇部も入っていて(技術の担当) 

フォークは そんなには 馬鹿にはしていなく 

昼休みには 校庭や ミルクホール

(校内のお茶や軽食をとりながら 雑談するホール)

で 部の連中達と ギターを一本もって


7~8人で 「夜空の星」とか「若者達」や 

加山雄三の 初期の頃の 歌を みんな


(女性の方が多かったかな)歌ってました


<「夜空の星」(夜空ノー 星ーにー 祈りー ヲ 捧げー  という歌)

は二種類あるのご存知ですか?>


結構ギターを弾く人は多くて ギターを回して 歌ってた

でも 当時は 学生運動の 始まりで 歌に飽きると 

社会問題や人生、男と女の違いなど ずいぶん真剣に話しましたね 

夕方からは 安い居酒屋みたいな店の 二階(座敷) に 

ギターを持ちこんで歌ったり議論したり・・  

とてもハッピーな日々でした


そう言えば テスコの 赤い 薄い箱つきの電気ギター 

(こんな表現で わかるかな?) 

名前を忘れたけれど まだ 飾って有ります 

(バンドでは 使っていない) 


昔のバンドマン達は クリエイティブ では無くて 楽器が無かったし 

有っても高くて買えなかったから いろいろ工夫せざるを得なかった・・

が 正解でしょう


ある時 後輩の 1年坊の 金持ちの ドラマーが ジルジャンのシンバルを

買った 同じドラムで 叩けば 僕のほうが上手いのに(?)

 文化祭で ジルジャンを叩いてる 彼の演奏を 聞くと 

スゲ― 上手く聞こえる 「負けた 負けた!!」


なんて ひがんでた




(3)

人前で 演奏して見たくなると 当時は まず ダンパ(ダンスパーティー)

それも そんなにあるわけではないので 自分で 企画するしかない

会場探し・パーティー券の作成 (勿論 11枚手作り・・

友人の妹にも手伝ってもらった)

・券の販売 (特に女子高・女子大に 顔のある奴に 頼む・・


売上の何割か あげた人もいた)・ そして 当然練習 

とにかく 出演バンドは 自分達だけなので 3ステージ分 最低20曲は

マスターしなければ・・ 結構いいかげんで 当日が近ずくにつれ

「この曲は サビを 3回やろうとか これはドラムソロを長くとか」

たとえば ベンチャーズの 「ブルドック」などはアドリブを何回入れて

何分持たそう・・ なんて 3回のステージ時間の管理ばかり

当日 場所は 代々木(南新宿の近く)の「ウィスタリア」という喫茶店

(まだあるかなー)7時ごろから10時位だったか とにかく 借りきりで・・

来た来た (女性が八割くらいいた感じ) 

超満員(3百人以上と思う・・パー券はそのくらい作ったけど 

タダで来た奴が 多いので) 

いろんな女子高・女子大の学生がいた 

当時は 本当に ダンパなんか 余り無かったので


練習の時のテープが残っていて もう10年以上聞いてないけど 

相当下手だったけど とにかく ほとんど真っ暗に近いところで 

皆 ただ踊れればいい(ディスコなんか無いし 踊る場所が無い時代) 

という感覚みたいで リズムさえ乱れなければ 

メロ間違おうが 歌詞間違おうが 音痴だろうが どうでもいいみたいな・・


ドラムは 俺だもんね!!(リズムの確かさは 定評有り  カッカッカ!)

大盛況のうちに あっという間に エンド・・ 

夕方から バンドメンバーは アルコールいれていたので 

結構 メロメロで 終わって 確か綺麗な 女の子いっぱい引き連れて 

どっかで 打上して この辺頃から 記憶があまり無いのだ!!


でも パー券売り切っていて 殆ど代金回収してたので 

かなり儲かっており打上も豪華だったと思うし 

残りは どうしたかなー?


喫茶店の 可愛いウェィトレスの ○○チャン 今いずこーー 

大学入学式の 前に もうひとつ ダンパに 出た

そう言えば 昔のフィンガースのアマ時代の コンテストの ラジオのテープ

持ってるけど 「バンブル・ビー」という曲 

当時 弦上を指でスライドするので無く 1音1音 指で押さえて(分かる?)

弾いていたので みな ビックリしてた




()

また ダンパやりたいなー と思ってたら 

すぐに 僕の 近所の幼な友達から 「パーティー」出演の依頼有り 

自宅での 練習を 通りすがりに聞いたので・・


とのこと. ということで すぐOK

直ちに 二回目の出演 場所は 飯田橋の 何とか会館

当日 行ってみると お客さんの雰囲気が なんか変! 出演バンドは僕らだけだけど・・

とにかく 何ステージか 無事に終え 


その友人に 「ギャラは?」と聞くと「2階の事務所で・・」と言う

メンバーの一人が「ちょっと ヤバイよ もらえるかな?」と・・

僕の 友達の紹介だから お前一人で もらいに行け・・

と行ってみたら ヤッパリ ヤバかった 怖い人が いっぱいいた


でも 堂々と 「ギャラください」と言い きちっと もらって 

走って逃げたいのを 我慢して 堂々と? 帰ってきた 


バンドの 腕が 腕なので 金額には こだわってはいなかったけど

記憶では かなりもらった 

ここまでは 「スコーピオンズ」と言うバンド名




()

大学 入学の前 3月の末に 新宿の紀伊国屋ホールに

入学したら先輩になる 同じ大学2年上の 

バンドが出る というので見に行く 


ベンチャーズとか 少し ボーカルもやっていた 

結構上手かったが 自分は 何を 思ったか

「あの ドラムより 俺の方が 上手い」今思うと 結構 図々しかったなー

入学して すぐ そのバンドに 自分を売り込み 入ってしまったのだ

そして 最初の バンド生活が始まった

このバンドは 最初は ベンチャーズ 中心だったが

すぐに BEATLESの曲を中心にレパートリーを増やした

当時 BEATLESの コピーバンドは コード回転の

やさしい「マネー」のような ものしか ヤっていなかったけど

我々は 「テイスト オブ ハニー」「ノー リプライ」

「ティル デァ ワズ ユー」など 当時は難しい曲を 

やっていて ここでも 他の バンドを 

ちょっと馬鹿にしていた 変わった所では「ラ・ノビア」なんか得意曲だった


1965−1966位までこのバンドにいた 結構稼いだね

夏は 都内の 「ビアガーデン」「レストラン」で 長期契約 

その他 高崎とか 名古屋とか いわゆる ドサ回りもした



(6)

当時 BEATLES を やっているバンドは 殆どなかった


やったとしても 前に書いたように 「マネー」や 「トゥイスト&シャウト」

のような コードの 単純回転の 曲だった

バンドの 衣装を そろえた 真っ黒のちょっと変わったスーツ

(僕は着るものに余り興味がないので 固有名詞は 分からん) 

に 黒の 蝶ネクタイ 結構 落ち着いてた


学園祭は勿論 紀伊国屋などのホールを借りた軽音楽フェスティバル 

ダンパなど何でもやった


移動は 1台の 車に 楽器・人間 全部押し込む

当然 楽器が先 あとから 空いている所に 人が もぐり込む

前後・左右・上下 関係なし 運転者は 外のミラーでしか 後ろは見えない

ある時 車内は人間2人と楽器で超一杯で 

乗り切れない2人が 後ろのトランクに入って 

トランクのドアを半開きにして(窒息を心配したのか?)


吉祥寺の 人通りの多い 狭い道を 移動した

親切な人が 「トランク あいてるよー」と 上から押さえ閉めようとする

騒音で トランクの中の「閉めるなー」の声が聞こえない

あとで 大笑いだった

名古屋に行くとき(冬) 車が 楽器を乗せる前に 事故り

フロントガラスに ヒビ 運転席の ガラスが 割れた

とにかく 行かざるを得ない 運転席の窓を ダンボールで

ふさいで 凍える中 箱根を越した

夏は 長期で ビアガーデンと 契約して 約1ヶ月 週に 34

他のバンドと 日替わりで 出演した

場所は 銀座の 当時 まだ 日劇が有ったと思うけど 今の マリオンの

前の ニュートウキョ‐の 屋上ビアガーデン

そのビアガーデンの入り口の真上にある 厨房や 水のタンクのある 

幅の狭いスペースに 楽器をセットした


屋上ビアガーデンを 上から見下ろせる 場所だ

結構 人気も有った

そう言えば 銀座を歩いていて 知らない女の子に“サインして”

なんて言われたことも有った

半分以上が BEATLESの曲だったが 他に ベンチャーズの曲も

やってた 「キャラバン」なんかやって 途中ドラムソロになると

他のメンバーは 俺を一人にして 下に降りて行って お客に

ビールをおごってもらって 俺のソロを見ながら 一杯やってる

疲れてるときは 「なんでダー!!」と ぶつぶつ いいながら

「全員先輩だから しょうがないか」と あきらめた 

このバンドの テーマソングは“A hard days night”だった

(普段 英語は使わないので 横文字は スペルを 間違えるかもしれないが

気にしないで行こう! 感覚で判りましょう! 

辞書を引くのは 面倒くさいので・・一方的ですが・・)


ステージの始めと終わりにのテーマソングでは

曲の<when I home・・>という 

サビのところで 左 右 センターの順にむいて 演奏しながら全員 礼をした


このビアガーデンでは 我々の ステージの 間に kさんという人が

飲むフロアの 中央の 50センチくらい高い 半径2メートル強の

丸いステージで 一人で アコーデオンを弾いていた

いつしか 彼に 誘われて 僕だけ バンドのステージの合間も

彼の横で スネアと ハイハット だけで アコーデオン演奏に 

リズムをつけるようになってた 

これも 結構楽しかったが これ 確かギャラもらってないかも(?)


この バイトの一番の 思い出は・・

或る日 横須賀かどこかの 米軍基地の 黒人のバンドが 一杯飲みに来ていた 

ビアガーデンの 支配人が 僕のところに来て


「彼等は 基地で BEATLES を やっているバンドだが

君らのステージを見ていて 演奏したくなった・・が ドラムが同行してない

ドラム 付き合ってくれまいか?」

勿論 OK で 曲は “slow down”

5人位いて 全員 黒人 “勝手に 始めるから 適当に からんでくれ”

と言われ 始まった まあー ビックリした

始まったら 5人が 何かの 有機体のように 一つになって

空気ごと うねってる 

この リズムの うねりの中に 自分も引きずり込まれた 

もう 勝手に 手が足が 動く 気持良かった


黒人の リズム感を 身をもって 体験できた 

この快感は 今でも 覚えてる

口では 言い表せないが 自分を含む 全員が 一つの宇宙に入りこんだ

そんな 感じだった



(7)

その後 「東芝」主催の “ビートルズ コンテスト” に チャレンジした


かなり多くの バンドが出ていた

確か 1バンド 2曲づつの演奏で 優勝を争った 

わがバンドの 「出し物」は <NO REPLY> と 

MRMOONLIGHT> か <BABY ITS YOU

記憶では 他のバンドは やはり コード回転のヤサシイ

<マネー>とかの曲が 多かった

我々は 自信過剰のため 初めから 勝つ気でいて 実際に優勝した

そして 星加ルミ子 か 湯川レイ子の どちらかから

(区別がつかなくて失礼)

優勝カップを 受け いろんな 副賞を もらったが


一番うれしかったのは 発売直前だった ビートルズのアルバム 

“HELP”を 全員 1枚づつ もらえたこと


アルバムから 

HELP!> <TICKET TO RIDE> <ACT NATURALLY

<ITS ONLY LOVE> <YESTERDAY> など

すぐ レパートリーになった

優勝の 最大の副賞は TV出演だった

NO REPLY1曲を スタジオで 何時間も 録画撮りをした

当時の スタジオ録音は 特にドラムは 

周りから つい立のようなもので仕切られていて 

皆の顔が見えないので (ヘッドホーンはしていたと思ったが)


とてもやりにくかった

何十回と 撮りなおし 参ったね そして 後日 番組収録

(アフ録って いうのだっけ?)

番組は 日本テレビの “ビッグ ヒット ショー”

司会は 長沢 順 

出演者は 奥村チヨ シャープ・ホークス 望月あきら など

オンエアは されなかったけれど 望月あきら の 録画撮りのとき

出てくるときに 前転をするんだけど カッコ悪く(失礼)

ひっくり返ったのを まだ 覚えている

我々の 出番は 長沢 順が 司会 になり

青島幸男 や 奥村チヨが 審査員の 芝居をして

我々が 登場し 演奏する という設定

始まる前に 僕が ドラムに座っていたら 青島幸男がやってきて

「んー ドラム 教えてくれるかねー」

何て 言って座り 適当に「こうするんですー」

なんて教えてあげたら


「はあー 難しいもんだねー んー」なんていってた

青島さん ドラムの先生(僕)のこと 覚えているかねー

なぜか テレビオンエアの 直後に バンドとは関係ないグループで

蕎麦屋に入ったら 「テレビに出ていた人だ!」

なんて言われ ちょっとしか出ていないのに 不思議な気分だった

俺は 目立つのかなー

その後 理由は 忘れたけど このバンドは 脱退した



(8)

“196x年夏 ざ・箱根園ズの巻”


ある年の 夏 7月中旬から 9月初め頃まで箱根で バイトをした

元箱根・芦ノ湖畔の 今の箱根プリンスホテルができる前

当時「箱根園」という キャンプ場や レストランのある

総合レジャーセンター みたいなところがあった

確か トビコミ だったと思うけど

俺は 一人で そこのYさんという 「箱根園」の支配人と

一夏の バンド契約を結んだ

湖畔とレストランの間に 広い芝生エリアがあり

レストランの芝生側に 1メートルくらい高くなった 通路があった

その通路を舞台代わりに使い 芝生そして その向こうの 

湖に向かって 演奏しようという企画

夕方から 3ステージくらいだったか 

1日いくら という40日間くらいの契約 

とにかく この間ステージを埋めなければならない


大学の 軽音楽部に入っていたので 結構 メンバーは知っている

バンドはいくつもあった

毎日 誰がとか どのバンドをとかを どう調整するかとかの

調整が とにかく大変だった


それも すべて ロックだけで埋めたい 

ハワイアン等は 入れる気はなかった

何日から 何日までは バンドA 次は バンドB

というようにできれば 割と楽だが 

出演メンバーに 出られない人がいると 

そのパートを 補充しなければならない


一度も組んだことのない 組み合わせとか

もう シッチャカメッチャカだった

初めての組み合わせメンバーでも 

ステージは 夕方からなので 日中に音合わせ・練習はできる


それに 助かったことは 使用側の「箱根園」は

立派な とか 素晴らしい ステージ なんか全く期待してなかったこと

大きな 音で 人寄せになってくれれば 結構 という 態度だった

なんせ 湖の向かっての 演奏なので 音の遠慮はない


 ただ 使ってるアンプが 何せ 貧弱ではあった

 グヤトーンのだと思ったが 当時 アンプとスピーカーが分かれている

 セパレーツ型が 憧れだった 

45ワットなんていうと 「スゲー」嬉しかった 


雇い側は 人が集まれば レストランに客が入り 

売店で物が売れる ただ それが目的


ステージの時間(午後6時頃)には 芝生の庭は 

それこそ ビアガーデンとなる


旅の通りすがりの人 遊覧船の船着場だったので 

船から下りた人 地元の人 近くのホテルから 出てきた人 そして


「箱ね園」の キャンプ場の コテージの若者たち

飲んだり食べたり 湖畔の近くで夕涼みしたりしながら 

立ったり芝に座ったり 席についたり ビール片手に


みんな うるさい音を聞いていた 

そして いつも必ず どこかで 誰かが 踊り出す

小人数のときが多かったけど 時には 団体がきて

超小型ウッドストック状態もあった

メンバー集めは 大変だったが 

曲は“ベンチャーズ”を 中心にしたので


ほとんどのメンバーが どこかで1度はやっていたので なんとかなった

持ち曲が少ないときは “ブルドック”を 15分続けようとか

ここで ドラムソロを 何分 とか どうにでもできた

夜は よく霧が出て 湿気る

湿気ると ギターの 弦が切れることがある

切れても 結構ごまかせるものだが

ある時 リードギターの弦が切れた 彼は何を思ったか

突然 ギターのコードジャックを抜いて 脱兎のごとく 走って

消えてしまった 残った連中も びっくりしたが とっさに

ベースのアドリブを・・ 

逃げた彼は 「頭の中が真っ白になったので とにかく

逃げ去るしかないと思った」と のたまう

あるときは どうしても リードギターの都合がつかず

仕方なく 俺がリードギターをやった

曲はたくさんできないので 1曲を10分位づつ持たせた

かなりあせったが それでも アンコールがきて

(当時は アンコールすることが 一つの流行だった)

結構 気分をよくした 

そういえば 1曲の中で リードを取りながら 途中から

ギターを置いて ドラムをたたき また ギター

なんてことも 懐かしい

俺が 演奏側と契約したのは この間 30人近かったと思う



(9)

ザ・箱根園ズでの仕事では 確か 週に一日 休みがあった


ほかのメンバーは 自分の出るときだけ 箱根にいればいいので


週に数日 東京からやって来たり・・ 

補充だけの人は 全部で3日位だけ手伝ってもらった人もいたが・・


俺は とにかく 開店の日は いつも いなければならなかった

でも 毎週1日の 休みの日は とにかく 東京に戻った

メンバーの車に 乗せてもらう以外は 小田急の“ロマンスカー”で

往復した “ロッマンスカー”何度乗ったことか

車では スピード狂もいて あるとき 東京に戻る途中で

スピード出しすぎてパトカーに 追いかけられたが 

その運転者の「いくぞー!!」の 一声で どこの町か忘れたが


今で言う “カーチェイス”ってやつ  目茶目茶走りまくって

とにかく 逃げ切ったこともあった

同乗者は 肝がつぶれた

そのとき運転していた彼は 10年位後のある日 

某カーレースで 優勝して


テレビで 優勝カップを 受け取っているのを見た

とにかく いくら若くても 2ヶ月近く 毎週 

東京・箱根の 往復はちたびれた

日中は 練習もしたが(これは場所がないので 屋外で

アンプなしの練習 エレキギターはまだ 音が聞こえるが 

ベースが一番苦労してた 悲惨だった 音が聞こえない・・


ドラムは スティックで道路や周りの木をたたく・・)

昼は 毎日 売店の売り子や プールの チケット売り のバイトもかねていた

この辺のことは いくら時効とは言え ちょいと書けないことが多い

普通にやってるほど 真面目ではなかった

初めて参加する メンバーには

真昼は お客がいようといまいと 

海パン一丁になって ワゴン車に コーラとか積んで


芝のガーデンをまわり 食べ物や飲み物を売る ・・

というルールを作り


「ビール いかがですかー」と 大声で言わせ それを見て

皆は 指差して大笑い・・ とか

もちろん そんなバイトは 請け負って無かったので

支配人に ただでいいから ワゴン車販売 やらせて欲しいと

お願いして実現したものでアール

バンドの 終わった後は 毎日 キャンプ場で 焼肉パーティー

そこの従業員や バイトの子で 面白そうな人を呼んで

がんがん 酒を飲ませたり・・ ウント若い男の子に

かなり飲ませて 急性アルコール中毒になり こっちが びっくりしたり・・

夜は キャンプ場の 布団を保管する小屋に

それこそ 積んである布団の間に サンドウィッチのように

潜り込んで寝た (タコ部屋と言ってた)

雨の日に 空いている コテージの 入り口をかってに借りて

焼肉のための焚き火をして 入り口をかなり燃やして 

支配人に怒鳴られたことも・・


レストランの入り口に ジュークボックスがあって

電気が消える10時ころになると ロックンロールをかけ

踊ってる可愛い子が いっぱいいた

最後は 男とチークダンスをして みんな 湖畔のほうに

消えていった

星はとにかく きれいだった

隣の 高級レストランには プロの

ハワイアンバンドが 入っていて

よく見に行った 見ているうちに いつか

“箱根の夜”なんて ハワイアンの曲を 創って

暇な夜 湖畔でギター 一本で 歌ってた

みんなで よってたかって 創った曲

今でも 5年に一度くらい 口から出てくる

“月の輝く ハーコネ  星の降りそな ヨ―ルよ…”


続く                J's