日本仏学史学会   Société ’Histoire des Relations Nippo-Françaises
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月例発表要旨 【平成19年9月(第389回)~平成23年5月(第424回)
   
 第424回月例会発表(平成23年5月28日)

『日本におけるM.プルースト受容初期』
                                    
       
                                 川名子 弘    

この難解な作家が、日本にどのように受け入れられたのかという関心の射程は、意外と深く広い。しかしそれはとりあえず、最初の訳者、紹介者、またその存在の告知者は誰なのかという問題に始まる。この三点の内、翻訳は<明星>19233月号掲載の重徳泗水訳「彼女の眠」が嚆矢をなすというのが定説である。それは淀野隆三(19531958)が指摘し、井上究一郎の詳しい紹介(1971)で追認された。初の紹介は、小川泰一の研究ノート(<仏蘭西文学研究>創刊号、19266p.)とする見解もあったが、実はこれも重徳がそのフランス社会全般を見渡した二著『現代のフランス』(192111、プルーストへの言及は7行)、『仏蘭西文化の最新知識』(19222、言及は7頁半)で、最近最も注目される異才としてプルーストを論じていたことが千葉宣一(1979)によって判明している。重徳が三つの栄誉を独占したわけだが、これは決して偶然ではなく在仏七年にわたるジャーナリストの強い知的関心の賜物だったように思われる。
 しかし本格的な翻訳は、淀野と佐藤正彰共訳『スワン家の方・1』(1931223p.)で緒に就く。それから五来達訳の5巻(1934919351)が登場するまでの四年程は、プルースト受容の高潮期を画した。その周辺には有名・無名の仏文学のamateurや意気込み高い新進の作家たちが控えていたが、流行という逃れがたい熱病に彼らが罹っていた側面も見落せない。今から見るとやや意外な顔ぶれが怪物に立ち向ったのだ。川端や横光、また堀辰雄などはさて措いて、小林秀雄(原書で)や梶井基次郎、太宰治(共に翻訳で)なども一時敬虔なproustienだった。山内義雄がスワン訳稿6700枚(未刊)を出版社に渡したのは1926年頃である。
 ところがこの熱気は1935年初頭、一挙に衰退する。以後若干の例外を除けば、1953年の初の全訳企画まで低迷期が続くが、これが単に戦争のせいなのかどうかは検討を要するところだろう。

 
 第423回月例会発表(平成23年2月26日)

『学問芸術論』と『非開化論』
                                    
       
                                 飯島 幸夫    

中江兆民の『非開化論』(1883年、明治16年)は、ルソー (Jean-Jacques Rousseau) の『学問芸術論』(1750年)第一部の三分の二ほどの部分訳である。残りの三分の一は訳出されず、第二部は、翌年土居言太郎訳が刊行された。土居訳は癖のない逐語訳でほぼ原文通りだが、兆民訳は原著とはかなり異なった印象を受ける。
 ルソーの『学問芸術論』と比較した上での兆民訳『非開化論』の特徴は、
1.西洋の綿々と論理をつないでいく思考・表現の仕方とは異なり、簡潔にして気力のこもった漢文-「一言以て之を蔽う」という書き方である。
2.「開化」という言葉を用い、読者の意識をフランスから明治の日本に移し、ルソーが言っていることを、当代の文明開化にあてはめる。
3.「文芸とは開化の功績であって、徳義を害するものである」という、原著をもとにして自分で出した結論を、著者に先回りして言ってしまう。
4.「政府の暴虐」という言い方を用い、政府に対して批判的である。
5.悪徳の隠蔽・風俗の頽廃は「今日のいわゆる文明開化の風習である」といった、単純で分かりやすく、断定的な言葉を何度も繰り返す。
6.興味深い逸話を入れ、学問的というよりは、むしろ劇的な効果をねらった読ませる文章を書く。
 以上、様々な特色のある『非開化論』は、現代の翻訳という概念の枠をはずれ、独創性の味わえる著作となっている。「文章ハ経国ノ大業、不朽ノ盛事ナリ」という曹丕の『典論』の一節を、兆民は好んで墨書した。曹丕と違い野にあった兆民にとっては、この一節は、文章には社会を動かす力があるということになるのかもしれない。曹丕が政治家にしてかつ文人であったように、兆民は政府を攻撃する論説を書くのにも自己の文才を傾注した。『非開化論』の魅力は、漢文調の気迫のこもった躍動する文章に負っていると言ってよいであろう。

 

 第422回月例会発表(平成23年1月22日)

日本写真史黎明期の俊秀たち
                                    
       
                                 中川 高行    

 わが国写真史の先駆者上野彦馬、内田九一等に当時の最先端写真技法を伝授した来日写真家としてRossierの名は早くから知られていた。上野23歳の筆になる「舎密学必携」(文久2年)は、明治初年まで化学の教科書として各地の藩校で使用されていたと言われているが、この中の写真に関するページは、ほぼRossierの教授内容そのままであったらしい。要するに、その後のわが写真界の発展の礎を築いた人物のひとりとしてRossierの名を外すことができないというのが斯界の常識である。ところが、彼の人物像については英国のステレオカメラ・メーカーNegretti & Zambra社から極東情勢の取材を委託されて来日した「仏人写真家」という程度のことしか、最近まで分かっていなかった。数年前Rossier研究に展望を開く新発見を行ったのは英国人研究家Terry Bennett氏である。今年に入り横浜開港資料館・斎藤多喜夫氏の紹介記事(「開港のひろば・86号」)を目にするまで私はこのことを知らなかった。うかつであった。Rossierなる人物は実はフランス人ではなく、スイス人(1829年、FribourgGrandsivaz生まれ)であること、1855年から62年まで7年間極東で取材活動に従事したあと帰国、その後故国でスタジオを2軒経営、2度の結婚をし、2人の息子に恵まれたこと、何らかの目的でパリに渡るがその地で客死(没年不明)等々の基本データをBennett氏は ’06年出版の『Photography in Japan 18531912』に記している。つい最近の発見といっても、すでに67年が経過しているので、その後新たな発見が追加された可能性も大いにあるが、今回の発表では、残念ながら ’06年までに明らかになった諸事実を雑然とご紹介することしかできなかった。我々にとって最大関心事はもちろんRossierが日本において過ごした短い期間の足跡をできる限り突き止めることであるが、この点では専門家の間でもまだ大した進展はみていないようだ。Bennett氏の著書により数人の興味を惹かれる来日フランス人カメラマンの存在を教えられた。これも今後の課題である。

 

 第421回月例会発表(平成22年12月25日)

滑川明彦先生の研究姿勢
―新著にみる仏学史へのアプローチ―
                                    
       
                                 山本 慧一    

 新著『ことばと文化-日欧の出会い』(201010月発行)は、「第Ⅰ部 日欧の比較」、「第Ⅱ部 日欧の交流」、「第Ⅲ部 日欧の出会いと文化」の3部から成り、前著『ことばと文化-日仏の出会い』(200710月発行)よりもさらに研究領域が拡がっている。
 新著の中で、先生が特に力を入れられた論考は、私の考えでは、「第Ⅰ部」の『フランスにおける日本学』(pp. 95129)、『フランスの風土と文化-言語-』(pp. 130151)、「第Ⅱ部」の『ことばと文化-比較韻律論の試み-』(pp. 174199)であり、これらの論考の中に、先生の研究姿勢ないしは仏学史へのアプローチの特徴が示されているように思う。
 要約すれば、1) 先生の学問的出発点が、当時としては非常に珍しく「フランス語学」であったこと。2) したがって、先生の諸論考が「緻密、綿密であり」、「実証的であった」こと。3) さらには、研究を進められるにつれ、常に「ことばと文化との関係を追究」されたこと。4) 必要に迫られて英語を懸命に学ばれたため、研究に対する「視野が広く」なり、「他学会にも積極的に参加」されて、「該博な知識」を得られたこと。5) 特にR.ヤーコブソンの『詩学』を研究されて、大学院時代からの研究テーマであった文体論・韻律論を『(日仏)比較韻律論の試み』としてまとめられたこと。6) 「記録の重視」などが挙げられよう。
 『日欧の出会い-函館五稜郭-』の「まとめ」で、《思うに、文化交流史とは2国間の交流のみの観察では視野は限られる。言語学でいう通史的であるとともに、共時的な座標軸のとりかたが必要であろう。日欧文化交流史、そして広義には洋学史、比較文化史的視点が必要となるゆえんである。》と記しておられるが(p. 262)、次回刊行予定のテーマ「五稜郭の研究」では、こうした考え方に立脚した論考が示されるものと期待される。

 

  
 第420回月例会発表(平成22年11月27日)

メルメ・カションの謎
                                    
       
                                 Le ROUX Brendan    

日本において良く知られているにもかかわらず、多くの謎を残してきたフランス人宣教師のメルメ・カション (Eugène Emmanuel Mermet (de) Cachon) に関する今回の発表を通じて、パリ外国宣教会資料室所蔵の新しい史料を紹介しながら幾つかの問題点を確認した。
 1829年に生まれたメルメは、1852年にパリ外国宣教会の神学校に入学してから、18546月に司祭に叙階され、同年8月に日本へ出発したが、琉球に滞在することになった。185810月に最初の日仏条約の交渉にフランス全権グロ男爵 (Jean-Baptiste Louis, Baron Gros 1793-1870) の通訳を務め、185911月から、一時帰国をした18636月頃まで箱館に滞在した。その滞在地点は、パリ外国宣教会資料室所蔵の史料と、『続通信全覧』のなかにある「箱館在留仏人カシュン借地一件」という史料を照らし合わせてほぼ確定することができた。
 また、先行研究において「日仏交流の父」の一人として位置づけられているメルメの素顔は、直筆の書簡の分析から見てそれほど「文化人ないし知識人」ではないことも証明できた。しかし箱館に滞在した時期の執筆活動は確かに豊富で、今まで知られていたアイヌに関するパンフレット(1863年刊行)と「日英仏辞典」(1866に出版され始めたが、その費用はメルメが一時帰国した時に既にフランスの外務省とのやり取りの中で話題になっていた)の他に、「日本のヒエラルヒーに関する研究」という興味深い記事も紹介した。更に、キリスト教の布教が行えない状況が続き、メルメは貿易(毛皮の提供)にも手を出したことを明らかにした。
 しかし今回の発表ではメルメの日本での活動の前半しか扱うことができず、これからもメルメに関する謎を解き続ける必要があると言わざるを得ない。

 
 第419回月例会発表(平成22年10月23日)

フランス第二帝政期の外務省と外交官
-ロッシュ外交の背景-
                                    
       
                                 中山 裕史    

フランス第二帝政期の外務大臣は、ヴァレウスキーを除き、職業外交官出身者が務めた。ロッシュが駐日公使を務めた時期に外相であったドルーアン・ド・リュイもE. Drouyn de Lhyuisもムスチエmarquis de Moustierも外交官出身である。しかし、彼らも政治家の外相と同様に、外務省の政治局判断とは相対的別個に外交政策を推し進めた。その上、ナポレオン3世も独自の外交を行った。
 また、外務省で扱う「外交」とは欧州各国との外交関係であり、政治局の「北欧部」と「南欧・オリエント部」が中心であった。そこで、これら諸国(英・墺・西・伊・露・土)に6人(66年からベルリンも)の大使が置かれた。こうした地域管轄は、領事・商務局の組織においても同様であった。日本関係は、アジアでフランスの公使が駐在したペルシアと中国とともに、「アメリカ・インド=シナ部」が管轄した。外務省は職員が約250名であったため、多くの研修生と現地雇員とともに運営された。
 フランスの駐日外交代表部は1861年から全権公使が統括するところとなったが、スタッフは少なかった。ベルクールG. Eugène de Bellecourtはパリ外国宣教師会の宣教師に宗教活動をしない約束を香港で取り付けて単身来日した。ロッシュLéon Rochesが着任した時も駐日代表部は長崎領事を無給のデュリDuryが務めるほかは、ロッシュ自身が神奈川領事を兼務し、事務官のド・ルペルスde Lepeyrousseと蘭語通訳のヴァン・デル・ヴォーVan der Voo4人で駐日代表部を構成した。
 当時はパリと江戸の連絡に片道3か月を要し、帝国郵船の船便も月に一便であったため、日本公使館は本省から極めて疎隔されていた。これが現地駐在公使の「個人外交」を可能にし、同時に、それを不可欠なものとした。しばしば、ロッシュの対日政策は彼の「個人外交」として批判的に扱われるが、当時のイギリスの対日外交もパークスがほぼ決めており、日本がヨーロッパから遠隔の地であったことの象徴といえる。

 
 第418回月例会発表(平成22年9月25日)

フランスにおける日本語教育
                                    
       
                                    SUDRE Florence-容子
                                         塩田 明子    
 日仏の継続的交流は1858年の日仏修好通商条約締結に始まる。1862年の、日本のパリ万博参加をきっかけに、日仏交流が活発化した。パリの東洋語学校に日本語講座が開設されたのもこの時期で、本格的な日本研究が始まった。
 フランスでの日本語教育を中心となって進めたのは、レオン・ド・ロニー Léon de Rosny  (1837-1914)である。ロニーは東洋語学校で講師をつとめ、日本からの訪欧使節団の一員だった福沢諭吉と交流し、さらに国際東洋学者会議を創立。この会議で、日仏間に学術上の交流がもたらされたと言われている。
 他に日本語教育に貢献した人物として、ルネ・シエフェルRené Sieffert (1923-2004) を挙げることができる。シエフェルは、東洋語学校の学長をつとめ、『源氏物語』などの日本文学を仏訳し、フランスでの日本語教育を本格的にスタートさせた人物である。
 日本語教育は、幕末の開国期の後には、(1)第二次世界大戦後に日本の映画や文学が紹介された頃、(2)日本経済が著しく発展した時期、また(3)バブル崩壊後にも、マンガ・アニメ・日本食などが人気を集めると、その需要が高まった。
 フランス各地方に日本語教育が普及し始めたのは(2)1980年代で、高等教育において、また中等教育においても広がりを見せた。また1984年には、Agrégation de langue et culture japonaises(中等教育教授資格試験)も創設され、1990年代にかけて日本語教員の地位が一応安定したことで、日本語教育の地盤が形成されたといえる。
 しかしその後は、CAPES(中等教育適合資格)創設等の制度上の飛躍的発展は見られなかった。2000年代以降 (3)再び日本語学習者数が伸びる中、2005年、日本語教員や日本研究者が中心となってフランス日本語教育委員会を設立。在仏日本大使館や国際交流基金と連携し、日本語教育の環境を整えるために活動し、中等教育日本語プログラム(学習指導要領)が発表されることになるなど、成果をあげつつある。
 Rosny時代には、教材の中で中国語を引合いに出し日本語と対照させる記述が多くみられた。このやり方は現代の教科書にはみられないが、今度は、言語普及環境という面で、同じアジア言語である中国語の現状と日本語のそれがしばしば比較されている。 
  
 第417回月例会発表(平成22年7月24日)

ビゴーと日本近代漫画
                                    
       
                                            清水 勲     
 ジョルジュ・ビゴー(Georges Bigot 1860-1927)はフランス漫画の黄金時代に育ち、ドーミエ(Honoré Daumier 1808-79)、グランビル(Jean-Ignace-Isidore Gérard Grandville 1803-47)、ガバルニ(Paul Gavarni 1804-66)などの作品を見て育ったことが彼の風刺画の基盤になっている。
 明治15年に来日したビゴーは、イギリス人ワーグマン(Charles Wirgman 1832-91)が月刊誌『ジャパン・パンチ』を成功させているのを見、自身も居留地を拠点にして各種漫画雑誌の出版に関わっていく。また、『おはよ』『また』『クロッキ・ジャポネ』などの銅版画集の刊行は、初代五姓田芳柳の長女である渡辺幽香(1856-1942)に影響を与える。それを裏付けるのは渡辺家旧蔵の幽香銅版画作品帳である。
 それは、38枚の手彩色された銅版画集のようにも見える。冒頭の10枚はビゴーのよく知られた銅版画で、残りの28枚中6枚は、幽香の三つの画集(『寸陰漫稿』『大日本風俗漫画』『日本かがみ』)のいずれにも入っていない。
 ビゴーは『ボタン・ド・ヨコ』や『警官のたぼう』の手彩色版を出している。現物未確認だが、ビゴーあるいは幽香の銅版画集にも手彩色版が作られたのではないか。そして、この作品帳はその見本帖として作ったものではないか。全図の手彩色は冒頭10図をえがいたビゴーが担当したように見える。幽香作品にも英文のキャプションが付けられ、外国人に販売する目的で作られる画集だったことがうかがえる。また、最初にも言及したように、ビゴーと幽香の合作の手彩色銅版画集そのものなのかもしれない。少なくともこの作品帳は、ビゴーと幽香には交流があったことを物語る貴重資料だといえる。
 また、ビゴーと小林清親・長原孝太郎らとの交流やビゴーが来日直後に母親に送るために横浜の写真館で撮影した写真「侍姿のビゴー」が“19世紀のコスプレ”であることを他の写真や絵画資料とともに紹介した。

 

   
 第416回月例会発表(平成22年5月22日)

ジャポニスム、万国博覧会、そして人間動物園
                                    
       
                                            青木 博子     
 1889年のパリ万国博覧会は、博覧会の歴史に汚点を残すこととなった「人間動物園」がはじめて万国博覧会に登場した博覧会である。博覧会会場の一隅に、セネガルやニューカレドニア、ベトナムなどの植民地から連行されてきた人々が、柵で囲われた集落の中で、博覧会開催中、数ヶ月にわたって生活して、「未開人」という見世物になった。この発表では、万国博覧会で「人間動物園」が開催されるまでの経緯をみた。
 
1880年から1895年まで、フランスは植民地獲得に邁進していた時であり、植民地での支配を正当化するために、西欧人と非西欧人との間に境界線を引いたのである。柵の向こうにいるのは野蛮で未開な人たち、西欧によって救われ支配されるべき人たちであり、柵のこちら側にいるのは文明人であり、非西欧に文明と進歩をもたらす西欧である、というわけである。
 
ところが皮肉なことに、1889年のパリ万国博覧会の開催中、パリ万国博覧会を見るためにフランス内外から集まった人々の関心を集めたのは、オデオン座で上演された「日本の芝居」という副題のついた「微笑の女商人」(ジュディット・ゴーチエ作)であった。
 
この作品は、当時の限られた情報をもとに、遠い異国の日本への幻想を膨らませたものにすぎないのであるが、爆発的な成功をおさめた。
 さてそうなると、優れた西欧と劣った非西欧という、硬直した二項対立図式にとらわれていた人のなかには、「日本の芝居」や日本へのすさまじい憎悪をむき出しにする者もあらわれた。このことについても発表では触れた。

 

    
 第415回月例会発表(平成22年4月24日)

ル・クレジオの彷徨と文学
-ブレターニュ、モーリシャス島、アフリカ、メキシコ、日本をめぐって-
                                    
       
                                            浜田 泉      
 ル・クレジオ (Le Clézio) の祖先は、フランス・ブルターニュの出身(ケルト系)である。6代前の祖先は、仏革命下、愛国者-共和国側-として志願兵になるが、革命や戦時の有様に幻滅して、1790年、長髪禁止令を契機に除隊する。インド洋逃亡途中、モーリシャス島に上陸し、家族らと以後住みつく。以上は半自叙伝風小説 Révolutions2003〉(邦訳、『はじまりの時』)の中で物語られる。この小説は全体が時や場を自在に往き来して描かれる。作者の祖父は『黄金探索者』〈1985〉に描出されるが、夢想(島の昔の海賊の財宝探し)を沈滞的現実を破る梃子にして実行に移したロマン派風破滅型人物である。父は医師で、作家がニースに過ごした幼年時代当初、アフリカの英領ナイジェリア勤務で不在であった。当時の植民地行政に怒りを覚え、専ら黒人原住民たちの医療を広大な地域で独力で行った。この父の存在感と幼児訪れたアフリカの大自然は衝撃を与えた。これは後年の60年代後半、メキシコでインディオの文化に触れ、深甚な影響を受けたことに繋がっていく。デビュー作『調書』〈1963〉は現代文学先端の難解かつ言語実験を極める代表作であったが、次第に西欧近代文明への違和と批判は、アメリカ先住民社会との接触、調査を深めるにつれ、形を変え、独自の光彩を放ち出す。16世紀スペイン人コルテスらによる、アステカ王国征圧の暴虐と強奪の滅亡悲劇が、古記録や遺物により想像豊かに再現される。彼はインディオの神話や自然観にこそ、現代の混迷を解く鍵を見出している(『メキシコの夢』、『歌の祭』)。『古事記』を高評価し、来日の際は先住民文化のアイヌの地や奄美大島を訪ねた。後者では神道、カトリック、シャーマニスムが共存する間文化的痕跡に注目した。
 
 第414回月例会発表(平成22年3月27日)

幕末・明治初期の対日生糸貿易
                                    
       
                                            滝沢 忠義      
 幕末から明治初期にかけて、日本の養蚕、製糸についての教育書がフランス語に翻訳されていた。当時日本から発信した稀有な現象であった、『養蚕秘録』(上垣守国著、J・ホフマン訳、1848年)、『養蚕新説』(著者不明、レオン・ド・ロニー訳、1868年)、『養蚕教弘録』(清水金左衛門著、P・ムーリエ訳、1868年)などである。折しもフランスでは蚕に微粒子病が蔓延して絹業界は全滅の危機にさらされていた。ナポレオン3世から幕府に蚕卵紙を送って欲しいと要請があり、徳川慶喜は15千枚の蚕種類を送り届けたので、フランスの生糸業界は一応危機を脱することができた。『養蚕新説』はフランス政府の命令で出版されたもので、そこには日本の蚕の養育法の優秀さも記されていた。明治政府になってからは殖産興業の必要が認識され、富岡に器械製糸の官製モデル製糸場がP・ブリュナによって建設され、器械製糸の技術は次第に日本中に広がり、その製品はフランスに輸出され外貨を稼ぐ唯一の産業に成長した。日本で近代的な鉄道、銀行が誕生し、教育施設も充実したのも蚕糸業のおかげであった。この発表では当時のフランスの生糸事情をふくめ、両国の経済が蚕糸業を通じて深く交流した事実を紹介した。
 
 第413回月例会発表(平成22年2月27日)

レオン・パジェス VS レオン・ド・ロニー
-東洋語学校日本語講座をめぐる経緯-
                                    
       
                                            滑川 明彦      
 パリの(国立)東洋語学校1868年日本語講座を開講するに際して、(専任)教授の任用に2人の候補者が挙がった。その一人はパリ生まれのレオン・パジェス(Léon Pagès)で、フランスの草創期日本学者で、北京フランス公使館付き外交官として当時の清国に在留中、日本におけるキリスト教布教史に関心をもった。パジェスの日本研究は中国学から入り、日本での最初の布教に尽くした聖フランシスコ・ザビエルに関わる『聖ザベリオ書簡集』全2巻、1855年を著し、さらにフランス人の視点による『日本関係図書目録』1859年を刊行した。ついで、在日オランダ商館長J.D.クルティウスの『日本文典』をオランダ人J.ホフマン増訂による文典類を参考にしての『日本文法試論』1861年をはじめ、『日本廿六聖人殉教記』1862年、さらに1603年、長崎版の『日葡辞書』のフランス語訳『日仏語彙』1868年、『日本切支丹宗門史』と資料編1869-1870年、その他を刊行、その後の日本学研究の基を開いた。日本には、クリセル神父校閲、吉田小五郎訳『日本切支丹宗門史』全三巻(岩波文庫)がある。もう一人の日本語講座候補者は北フランスのリール出身のレオン・ド・ロニ(Léon de Rosny)で、1862(文久2)年、徳川幕府からの使節・竹内下野守一行が修好通商条約改定のためフランスに派遣された時、使節一行のうちの福沢諭吉らに日本語で語りかけたことで知られる。1863年ロニは東洋語学校日本語講師に任ぜられていたが、5年後には正式に教授に任用された。1868324日『よのうわさ』と題する日本語の新聞を発行したが、1号限りで休刊したもので、日本使節団との交流から得た資料を利用した『日本文集』1863年をはじめ、『日本語考』1865年、『日本語会話案内』1865年、『日本語文法初歩』1873年、白川寅太郎原著『養蚕新説』1866年の仏訳、さらに『日本詩歌-日本列島の古代、近代詩歌』1871年などがある。1873年にはロニの主唱で第一回東洋学者国際会議をパリで開催し、成果をあげた。1868年、国立東洋語学校に単に講座名としてのみあった「日本語講座」の公式開設にあたり、日本関係のち密な研究を果たしていた教授職は当然自分に渡ってくると思われたレオン・パジェスの任用が、結果として20歳も若いレオン・ド・ロニに渡ったことで、レオン・パジェスは深い失意を味わったという。そこには単に学究的な業績というより、ロニはフリーメーソンの一員であったということが陰ながら有利に働いたのではと考えられるふしがある。一見、唐突ながら、<ユダヤ>とともに10世紀以上にわたる世界的地下組織としてのフリーメーソンも視野にいれなければ事の推移を見定め得ないであろう、と述べた。本例会では東洋語学校正教授任用という経緯にすぎないが、幕末、薩長連合偉業には、大量の火器の調達という破天荒な働きをしたフリーメーソンでもあった英人グラバーと坂本竜馬との関係も大きな梃子になっていたことも考えられ、歴史理解には表面には表われない裏面史的理解の要を問題提起としてみた。 

 
 第412回月例会発表(平成22年1月23日)

徳川昭武に宛てたレオポルド・ヴィレットの書簡
-1867年パリ万博の出会いから日露戦争まで-

                                    
       
                                            寺本 敬子      
 フランス軍人レオポルド・ヴィレット(Léopold Villette 1822-1907)と、最後の将軍徳川慶喜の弟、徳川昭武(1853-1910の間には、長期にわたる文通が存在した。しかし先行研究から文通の存在は知られていたものの、具体的な書簡の内容はほとんど明らかにされてこなかった。またヴィレットについては、同時代の日本側の様々な書簡や記録に言及され、初期の日仏関係において重要な人物のひとりであったが、これまで研究が行われていない。本発表は、全108通にわたる書簡をもとに、ヴィレットと昭武の文通の内容を明らかにし、二人の交際関係をめぐる日仏交流の状況を解明していくことを主旨とした。

ヴィレットと昭武の交際は、1867年パリ万博の出会いから1907年のヴィレットの死にいたるまで40年の長期に及ぶものであった。昭武は、将軍名代として1867年パリ万博派遣を命じられ、留学を目的としていた。一方、ヴィレットは当時フランス陸軍の中佐を務めていたが、陸軍大臣ニールの推薦によって昭武の教育係に任じられた。この昭武の留学生活は、やがて大政奉還および新政府からの帰国命令によってわずか1年半で幕を閉じる。しかし、昭武は1876年に再びフランスへ第二次留学を果たし、二人は再会した。文通は1881年の昭武の帰国以降に本格的に開始した。全108通の書簡は、日仏両国の近代化と激動の時代に、それぞれ高い地位にあったヴィレット将軍と昭武の間で交わされた対話を具体的に伝える歴史資料である。また二人の関係は、1867年パリ万博の公的(政治的)な出会いから、後年は私的な友情関係に発展し、品物の交換や他の友人(渋沢栄一等)も含めた交流が存在した。今後の展望として、日仏間の人的ネットワークの広がりとその政治的関係、特に万博に関わった人々に注目して研究を続けたい。

*書簡内容は、寺本敬子『徳川昭武に宛てたレオポルド・ヴィレットの書簡-1867年パリ万博の出会いから日露戦争まで-』上下巻、一橋大学社会科学古典資料センター、2009

 
 第411回月例会発表(平成21年12月26日)

あるフランス人の旅行記に見られる1881年のジャポン
                                    
       
                                            森本 英夫      
 エルネスト・ミシェルErnest Michelの『240日世界一周・日本篇』は、1881825日に横浜に上陸し、105日に長崎を離れるまでの旅日記である。この著者については今のところ不明であるが、横浜上陸早々に「貿易商会」に顔を出し、当時この会社に勤めていた本野一郎を通じて、子安(峻)夫人(「扶桑商会」)から華族クラブ紅葉館に誘われたり、その後「貿易商会」および「横浜正金銀行」のお偉方から舞妓や芸者を侍らせたお座敷に接待されていることから考えて、フランス貿易商社の関係者であったのかもしれない。
 この時期日本は、租界地の外国人商人を仲介とする間接貿易から直接貿易に転じるべく、次々に新しい貿易会社や銀行を立ち上げていた。ちなみに本野一郎を介してエルネストが関わったのはすべて明治13年以降に設立された会社であり銀行であった。新しい直接貿易先を得るための接待であったのか、それとも日本の事情を探るためにエルネストを送り込んだのか?謎が残る。
 法学博士でもあるエルネストは二度にわたってお雇い外国人ボワソナードと接触している。初対面の際のボワソナードは、多くの人々に慕われている正義の男として、拷問の廃止にまで至った挿話を差し挟みながら、その活躍が熱く語られる。しかしアメリカ風の豪邸に招かれ、青銅器や漆器などの骨董品に囲まれて贅沢な生活をしているのを見て、それが永年喘息のために苦しんでいる法律学者の気晴らしに必要なことであると語るものの、日本に住むすべてのヨーロッパ人と変わりない姿にしか映らない。
 それに比してミシェルが心を打たれたのは、王子製紙工場の得能良介の人柄と労働者の生活や福利厚生にまでも配慮したその経営手腕である。社内貯蓄を奨励し、無償の医療機関と学校を設置し、そして将来的には年金制度などに行きつくサムライ得能良介の経営法を知り、経営者と労働者が金銭面でのいがみ合いに終始しているヨーロッパ資本主義との違いを浮き彫りにしている。
 
 第409回月例会発表(平成21年10月24日)

アーネスト・サトウの対日情報活動(2)
                                    
       
                                            楠家 重敏      

イギリス・ロンドンのナショナル・アーカイブス所蔵のサトウ文書(Satow papers)‘Translations’と題された草稿と印刷物をあつめた史料群がある。サトウが晩年に“A Diplomat in Japan”(邦題『一外交官の見た明治維新』)を書くときに、この史料群を机下に置いていたらしい。近年の萩原延寿『遠い崖』はその副題が示すように「サトウ日記」やイギリス外交文書を多用したものであった。しかし、その方法論では外交官サトウの姿は浮かび上がるものの、日本学者としてのサトウの軌道は解明できない。そこで、冒頭の史料群を分析して、サトウに関する新知見を紹介した。ちなみに、この史料群が18681月から始まっているのは、同年11日付をもって、サトウが日本語書記官に昇進したことと無関係ではない。
 1868年の筆頭の草稿は『国史略』の神代の巻である。戊辰戦争のきっかけとなった「討薩の表」をサトウは126日に英訳している。翌日、鳥羽伏見で戦端が開かれた。326日にはJapan Herald紙に「ミカドの布告文」を英訳して掲載した。さらに420日付のJapan Herald紙の号外の「日本の新しい政治体制」という特集に「三職八局」の記事をはじめとする5本の英訳を投じた。こうしたサトウの草稿や新聞に投書した記事が多数ある。
 日付と掲載紙ともに不明であるが、フランス人外交官メルメ・カションが編纂した『仏和辞典』に関する書評がある。サトウの日記の1867103日の条には「カションの仏英和辞典を借りたが、どこもかしこも誤りでいっぱいである。大急ぎで書評のためのノートをつくる」とあり、評者はサトウである可能性が強い。
 サトウの情報収集は多彩をきわめた。イギリス外務省に報告書ばかりでなく、横浜の英字新聞のJapan Times紙、Japan Herald紙や創刊間もない中外新聞、江湖新聞、太政官日誌に寄稿した。彼の情報収集は速報性にすぐれた。駐日イギリス公使館の外交官以外には、こうしたレベルの活動ができる者はいなかった。管見のかぎりでは、幕末明治初期のフランスの駐日外交官には日本の新聞を仏訳したケースはない。この時期の対日外交活動においてイギリス公使館がイニシアティブを握ることができた要因がここにある。

  
 第408回月例会発表(平成21年9月26日)

ナポレオン三世と極東外交-グロ男爵とレオン・ロッシュについて- 
                                    
       
                                            市川 慎一       

 去る613日に「ナポレオン三世と対外政策-遠隔地メキシコと日本の場合-」と題してわたしは別の発表を行ったが、今回の試みは前回の二番煎じではない。フランス第二帝政の外交と日本にかんしては、多くの優れた研究がこれまで公刊されてきた。ところがフランス側の研究書を参照すると、当時のメキシコや中国との関係にはふれられてはいるが、日本との関係に言及されることはほとんどないと言っても過言ではない。そこで、これまで日本の専門家とは若干異なった角度からその問題を再考するのも無意味ではないのではないかと愚考し、管見を述べてみた。わたしの調査で判明した点は、下記のようなものである
1) 1858年に来日したグロ男爵は職業外交官だったが、親子三代にわたる画家でもあったこと。とりわけ父は新古典派のダヴィッドの弟子で、ナポレオン一世の戦争画を手がけたことでも知られた人である。
2) 最近、わが国ではレオン・ロッシュにかんする研究が進んでおり、しかも来日前のロッシュが前任地での体験を叙述した『イスラムの32年』も近く翻訳出版されると仄聞する。そのため、アラビヤ語通訳、さらには外交官時代のロッシュの経歴についてはわたしのごとき素人が嘴をはさむことを控えたい。ただ、ロッシュはイスラム諸国においても、その企てが成就したか、未遂に終わったかは別にして、幕末の日本で徳川慶喜らにすすめた提案と共通するものがあった点だけをここでは指摘するに留めておく(フランスと当該国の若い世代のための語学学校の創設、造船所の建設、道路と灯台の建設、通貨と度量衡の整備等)。最後に、ナポレオン三世をはじめ、当時のフランス外交官、軍人の大半もヨーロッパの進んだ文明を遠隔地のメキシコや日本にもたらしてくれた点では、(とりわけわが国にとっては)恩人だったといえようが、半面、その文明をかたくなに拒否した国もあったことに彼らは長らく気づかなかったとも言えるだろう。

 
 第407回月例会発表(平成21年7月25日)

アランの原風景-初期プロポとその時代 
                                    
         高村 雅一        

 1894年に、ユダヤ人のアルフレッド・ドレフュス大尉がドイツのスパイ行為で逮捕された。冤罪であったが軍法会議で有罪となり、南米の仏領ギアナ沖の悪魔島へ流されて監禁された「ドレフュス事件」は、フランスを人権擁護のドレフュス派と国家主義的な反ドレフュス派に大きく二分した。外に、第1次・2次モロッコ事件などによるドイツの脅威や、1902年に労働総同盟 (CGT) が結成されて大きなストライキが続発したこともあり、国家主義的風潮が強くなった状況は、アランの原風景を語る上で重要である。アランを受容した我が国も殆ど見逃してきたアランの原風景は、政治・経済・教育などの社会学にあったという仮説を提示したい。この仮説の例証として1906年から1914年に書かれた「初期プロポ」を挙げることができる。
 アランの国家主義への不信としては、モーリス・バレスが「人間は、手を持っているから動物の中で最も賢いのであるというが、この考察にはびっくりした!」と書いている1906222日のプロポ「両手を持つ人間 」や、検討する精神を開放して自由にしなければならないという191195日のプロポ「ドレフュス派は語る」を挙げたい。これらのプロポが言いたかったことは、物事を主義主張の基に判断するのではなく、最初に結論ありきの如く行動するのではなく、絶えず活火山のように思考の噴煙を上げていること、「持つこと」が出来て行動するのではなく、幾何学のように正しく見ることであり、正しく思考することである。そのためには決して集団の眼で見たり思考してはいけない。つまり社会とか政治とか経済とか教育には、数学のように絶対的真理というものは無いのである。従ってアランは、選挙制度においても比例代表制は個人を選出するものではないから認めず、正しい政策には必ず政治家個人の資質が重要になってくると見ている。数学のような抽象的思考には不変の解答が可能であるが、社会学という具体的事象の科学においては困難なのである。

  
 第406回月例会発表(平成21年5月23日)

岡本一平の見たフランス 
                                    
 湯本 豪一        

 大正、昭和初期を代表する漫画家岡本一平はストーリー漫画の創始をはじめとして、風俗漫画、政治漫画、似顔絵漫画などに名作を残して一世を風靡した。彼は漫画家という職業を広く世間に知ってもらうために尽力し、日本最初の漫画家団体である東京漫画会の設立にも主導的役割を果たしている。こうした、時代を代表する漫画家岡本一平が2回の海外旅行でフランスをどのように見ていたかについて言及した。大正11年の1回目の海外旅行では数日だけのフランス滞在ということもあって旅行者としての印象が強いが、昭和4年から7年までの2回目の旅行ではフランスに9ヶ月ほども滞在し、じっくり腰を据えてフランスを体験している。
 2回のフランス体験は岡本一平の体験記的作品によって知ることができる。それらを通観しながら漫画家という立場の人物がフランスをどのように捉えていたかを紹介した。

 
 第405回月例会発表(平成21年4月25日)

«  Ishin et la France , l’aube des échanges scientifiques
entre la France et le Japon
 »
 

                                    
 Christian Polak        

Pour célébrer le 150ème anniversaire de l’établissement des relations diplomatiques entre la France et le Japon, le Musée de la Recherche de l’Université de Tokyo a organisé une exposition spéciale intitulée « Ishin et la France : l’aube des échanges scientifiques entre la France et le Japon » ; elle présentait du 28 mars au 31 mai 2009 les grands moments de ces relations depuis la fin de l’époque Edo jusqu’au début de l’ère Meiji en mettant l’accent sur les différents domaines scientifiques ce qui n’avait jamais réalisé jusqu’à présent.  Le conférencier s’est concentré principalement sur le séjour de Charles Buland au Japon et avant de commencer a tenu à présenter sa dernière découverte :

 l’acte de décès d’Eugène Emmanuel MERMET-CACHON, mort le 14 mars 1889 à la Villa Marie-Léon à Cannes dans le Sud de la France ; il s’était marié à Louise Alphonsine DURAND, et était ancien Consul général de France, officier de la Légion d’Honneur, il est enterré au Père Lachaise à Paris.

Charles Buland (1837-1871), maréchal des logis de l’escadron de Spahis de Cochinchine, s’est retrouvé en 1864 chef de l’escorte de la Légation de France à Yokohama sous les ordres de Léon Roches, et en même temps professeur au Collège franco-japonais de Yokohama. En 1868, il est pressenti pour rejoindre la première mission militaire de France au Japon, mais celle-ci doit rentrer subitement après la Restauration Meiji. Buland devient alors professeur à l’Ecole militaire d’Ôtamura en 1869, puis il signe l’année suivante un contrat de cinq ans avec les autorités du nouveau gouvernement de Meiji pour le poste de directeur de l’Ecole militaire et du Prytanée d’Ôsaka. Son patriotisme le pousse à rejoindre sa patrie pour combattre la Prusse, mais à peine arrivé en France avec treize de ses étudiants, il meurt subitement à Auch le 11 avril 1871.

 
 第404回月例会発表(平成21年3月28日)


フランス語の伝来―国語学(日本語学)からのアプローチ
                                        
大橋 敦夫
                     

 近世後期からの日仏交渉史の中で、フランス語と関わることで生じた日本語史上の変化事象とその研究課題について考察する。その構成は、以下のとおりである。
  Ⅰ.仏学資料をめぐる国語学(日本語学)上の課題
   1.外来語(&外行語)
   2.欧文脈
   3.資料研究
   4.(地域)資料の発掘
  Ⅱ.仏学資料を用いた日本語(史)研究の現状と課題
  Ⅲ.今後の課題

 Ⅰで挙げた4点について、日本語(史)研究の現状と課題を次のようにまとめた。
 Ⅰ-1.外来語については、日本語学の概説書等において、ファッション・料理・美術分野のものが多いと指摘されてきたが、考現学的見地から絶えず観察し続ける必要がある。また、「外行語」(フランス語に入った日本語)の変遷を追った研究は手つかずと思われるので、英語等との比較の興味からも、すぐに手がけたいものである。
 Ⅰ-2.欧文脈の研究も、主として英学資料を対象としたものであり、仏学資料による日本語への影響関係を探ることが課題として残されている。
 Ⅰ-3.資料研究は、現在のところ桜井豪人氏の独擅場である。資料研究は、研究の原点であり、その成果を咀嚼・批判し、さらなる考察の深化へと生かすべきである。
 Ⅰ-4.松代藩のように藩の軍制をフランス式にしたところでは、、同一書籍を複数取り揃えている。その活用の実態に迫り、仏学資料への親炙の度合いを確認せねばならない。

 今後の課題としては、上記の他に、①旧制高校(文丙・理丙)のフランス語教育および海軍兵学校のフランス語教育の実態と外来語・欧文脈の関わり、②仏学資料に見られる訳語のさらなる考察、③地域資料の持つ意味の考察、などが考えられる。
  
 第403回月例会発表(平成21年2月28日)

フランス語学の先達―鷲尾猛先生と川本茂雄先生
                                        
山本 慧一 
                                            市川 慎一 

鷲尾猛、川本茂雄両先生に山本が初めてお会いしたのは、19534月、早稲田大学第一文学部仏文科3年生のときであった。鷲尾先生はF.ギゾーの『文明とは何か』、R.デカルトの『方法序説』をテキストに用いられ、「冠詞論」と「時形論」を講じられた。少し高めの透き通るような綺麗なお声で正確に発音され、原文を直訳するのでなく、「この文は何を言おうとしているのか」を徹底的に問われ、説明できなくなると、先生が理路整然と説明なされるのであった。程なくして病気がちとなられ、1967221日亡くなられた。川本先生は、フランス語史と中世フランス語を原書で、言語学概論ではソシュールの『一般言語学講義』などを教えられた。川本先生は英語に堪能であるばかりか、アテネ・フランセでソシュールの継承者であるバイイの高弟フレイからフランス語を学ばれ、戦前、フランスに留学された。戦後、1960年と1967年の2度米国に留学され、最初の留学では変形生成文法理論を、2度目の留学ではヤーコブソン宅に下宿されて詩学および記号学を研究なされた。それらの研究成果を日本語に適用なされようとされた矢先、198381日亡くなられた。
                                                (山本慧一)

 鷲尾先生は大正年間に文部省在外研究員として、川本先生は第二次世界大戦突入の直前にフランス政府給費留学生として渡仏された。渡欧前、両先生ともにフランス語の達人であられたであろうが、その後はその能力に一層の磨きがかかったことは想像に難くない。お二人ともに生きたフランス語(鷲尾先生は発音)を重視されたが、川本先生はジャン=ポール・サルトルの戯曲は、俗語、卑語等を知らないとよくわからないと強調されたことが今でも忘れられない。院生時代には『オーカッサンとニコレット』を講読されたが、川本先生の演習題目も記載された1963年度大学院文学研究科時間表コピーを参考資料として当日の参加者に配付した。                                        
                                                          (市川慎一)

「フランス語学の先達~」と題する対談の司会を務めたが、意をつくされたかとなると、私の非才と限りある時間のため甚だ心許ない。それは両先生には親しく謦咳に接しなければ窺い知ることのできない、ある種の超俗的な語学的天性をもっておられたからである。幕末以来、仏学史上「フランス語」の遣い手はいくた数えることができよう。しかし「フランス語学」となると事情は違ってくる。幸い両先生に親炙しえた2会員によっていくたのエピソードを交え、特徴あるプロフィールが描かれた。司会者としての印象は、発音のすばらしい鷲尾先生は深く自己に沈潜され、感得されたフランス語の深奥の世界を『仏蘭西小文法』(白水社、1938)などにまとめられ、さらに晩年には独創的な「フランス語冠詞論」に結実されたのだと思う。一方、川本先生はソシュール言語学から生成変形文法を経てR.ヤコブソンの詩学に触発され、単にフランス語にとどまらずその広い言語理論の博捜から日本語論に移られるや、惜しくも天国に召されたとのことである。この栄誉ある司会を仰せつかった非才な私は、両氏の対談をもって今後の励みとしたいと思われた。   
                                                           (滑川明彦)

 
 第402回月例会発表(平成21年1月24日)

私のビゴー研究
                                        
清水 勲 

 ビゴーが日本で出版した画集は36冊、風刺雑誌は103冊余で、これらに描かれた風刺画・風俗画・世相画は1800点余。この中の日本関係作品の解読が私の研究の第一目標である。とくに第二次『トバエ』(明治2022年)の作品437点の解読を優先していきたい。同誌の特徴は大別して次の7点である。
 1 小中学生も知る著名な漫画を掲載
 2 自由民権期末期に創刊され、その終えんの社会情勢を描写
 3 日本人がキャプション作りで協力し、日本人をも読者対象にした
 4 『トバエ』の日本人読者はジャーナリストたち
 5 ビゴーが常に監視されていたことがわかる風刺画を掲載
 6 鹿鳴館の内部を多数描写記録した
 7 風刺の対象は、日本政府・政治家・内閣・薩長・官吏・官憲・条約改正・ドイツ・日本

文化・日本および日本人・外国人・・・と極めて多様である

『トバエ』の日本文は中江兆民とその高弟たちが協力したと思われるが、一点だけ兆民の文章と思われるものがある。それは24号(明治2121日刊)の「外国熱の流行」のキャプション中にある

「余輩此病の事に附いてハ(かつ)埃及(エジプト)に於て聞く事ありしが・・・」

という文章からわかる。明治211月以前にスエズ運河(明治2年開通)を通った仏学塾関係者は兆民・高弟(田中耕造・野村泰亨・酒井雄三郎ら)の中では兆民のみだからである。
ビゴーに関わる文章を読み直すと、研究対象となるテーマを突然思いつくことがある。たとえば、明治24年頃にビゴー宅を訪れた画家の長原孝太郎が昭和3年に書いた次のような文章である。

 「・・・僕が訪ねた時、彼の部屋には赤い布で腰の辺を纏った裸体の油画などがあった・・・」
これは、日本で描かれたかなり早い時期の油彩裸体画ではないか。明治10年代、フランスに留学中の山本芳翠は油彩裸体画を描いているが、日本で描かれたものはビゴーのこの作品が最も早いものではないかと思うようになった。この現物の所在は最近わかってきたので入手できればと思っている。

 
 第401回月例会発表(平成20年12月27日)

幕末仏学・英学の重層的課題
                                        
滑川 明彦 

1. 蕃所調所はかって九段下にあり、やがて洋書調所から東京開成学校へと発展してゆく過程は英学史ではよく語られるが、一方、雉子橋 - 一ツ橋 - 護寺院ヶ原辺りについては、仏学史では重要な位置とされる。それは、仏学史上、ナポレオンⅢ世より徳川方に送られた26頭のアラビア種馬が、横浜の太田陣屋を出て慶応31867)年626日江戸城内での公式贈呈式の前に、現在の千代田区一ツ橋1丁目・九段南1丁目を結ぶ雉子橋あたりの幕府の厩舎に収容されていたことが「奥祐筆手留めの慶応3626日の条」に記されているからである。このようにこの地域一帯は英学史、仏学史の両面に関わっている。

2. 安政51858)年619日、神奈川沖のポーハッタン号で日米修好通商条約を結ぶ前の嘉永61853)年63日アメリカ東インド艦隊司令長官M.C.ペリーが遣日国使として浦賀に来航、同月9日に幕府は久里浜でアメリカ大統領フィルモアの国書を受領という経緯があった。ペリーが来日に際して持参していたのはペリーが手に入れた伊能忠敬作成の日本地図を基本としたものであった。 恐らくオランダ商館に勤めていたドイツ人P.F.J.シーボルト(1796-1866)が、国外に持ちだした日本地図がオランダからアメリカに渡り、その写しをハリスが持参したのであろう。その中で北海道の北、宗谷海峡がStraits of La Perouseとなっていることに注目したい。さらに注記されているように、伊能図が「わずかな追加と訂正を加えられたシーボルトのものから転写された」というのである。La Perouseとはルイ16世の命で、18世紀に現在の宗谷海峡を横断したペルーズ号にちなむ名称である。ところで伊能忠敬が製作した日本の実測地図「大日本沿海実測地図」の欠落部分が、フランスはブルゴーニュ地方のイーヴ・ペレ(Yves PEYRE)氏が約30年ほど前、パリ南東約300キロにあるブルゴーニュの家の屋根裏で見つけられたが、日本地図センターの調査の結果、図形などから<伊能図に間違いない>と断定されたという。それが平成162004)年12月、日本大学文理学部100周年記念館での「伊能忠敬の日本図展」で一部公開された。では、どのようにしてペレ家に渡ったか、である。ここに日本・オランダから始まってアメリカ-フランス が重層的に関わってくる問題がある。

3. 私は北海道の五稜郭に久しく関心を抱いてきたが、その五稜郭建造に関して日英仏にからむ疑問が解けずにいる。それは安政21855)年6月~7月にかけて英国東インド艦隊3隻の誘導で、フランス・インドシナ艦隊3隻が函館に入港した。これは安政元(1855)年823日の日英和親条約がある一方、日仏間には和親条約はなかったための誘導であろう。日仏間が正式に条約を結び両国間の交流が公式におこなわれたのは安政51858)年93日の日仏修好通商条約締結を見てからである。なぜ、日英に先立ち日米、続いて日露、日蘭などと和親条約が結ばれながら、日仏間には和親条約はなく、遅ればせながら日仏修好通商条約が日の目を見たのは上記の安政51858)年93日になってからなのであろうか。

 
 第400回月例会発表(平成20年11月22日)

天才と大物-フランスと日本
                                        
一川 周史 

 196090年にフランスと日本で出会った、価値意識の変更を迫る仏・日の巨人達を、啓示を思わせる彼等の生の言葉と共に紹介(日本人はフランスと関連づけられる人):
M. Bougai:天才舞踊家。古典技術から美的、音楽的、躍動的独創へ。ピカソ等も日参見学。
E. Decroux:近代パントマイムのfondateur。バロー、マルソー等全世界のmimesの師。
宇野多美恵:パリの花形外交官夫人から「相似象」学会を継承発展、今なお多数の信奉者。
H. Langlois:世界初のcinémathèque創設者。KeatonMarais、黒沢等、全映画人の恩人。
H. CartanBourbaki創設の数学者。脳力、気力、体力+pianisteengagé、偉業への資質。
永井康視:禅→ギリシャ哲学→ドイツ→インド神秘思想の瞑想者。無欲、無頓着の自由人。
F. Noël:演出家、馬術家で中世馬上劇を再興。無類の気楽さと壮大な自然舞台感覚の天才。
G. Serbat:ラテン語の権威。ナチス時代に抵抗軍を設立し戦後は大学者となった反骨の人。
Netzer:仏文教師。文学の独創的な味わわせ方で学習者を飽かせない上品で芸術的な解説。
中村天風:ヨガ導入の大哲、武術家。大正、昭和に有名無名の多くの信奉者を生み出す。
八田一朗:レスリング導入、一時代を画す。常識外の発想で不可能を可能にする選手を作る。
J. Mayol1976年、100mまでの無酸素潜水を敢行。映画Grand bleuで若者のhérosに。
西井 郁:フランス家庭料理から古流精進料理の後継者に。全てに未練なしで即時転進の人。
大木健二:築地市場長老。上海警察赴任後復員、種々新西洋野菜を導入。温かさ代表の人。
M. ChapuisVersailles宮殿礼拝堂主任オルガン奏者。変幻自在の即興作曲演奏の天才。
波多野茂彌:演劇と仏文。国文→仏文と一転、R.Rollanの翻訳。実験劇場主で演出、出演。
* 天才は学問や芸術に新世界を生み、大物はゆとりの生命力。両者相まてば巨人の出現。
 つくづく男は頭、女は腹の存在と思います。実在は腹、つまり生命を繋ぐ子宮です。我々男には頭を役立たせる対象である子宮、腹、自前のそれがないのです。男は頭の計画と腕力で女と子供を守るのが仕事で、悪く言えば使い捨て要員。船が沈むとき女子供が先。当然ですね。男は23人も残れば人間滅びません。
 私の知った天才とは何だったか。芸術なら感動を呼ぶ新世界を生み出せる人、学問なら人知の壁を突き破り人間文明を高める人、となると創造芸術家に軍配が上がる。
 大物たちに共通するものは何か、私と縁のあった大物は皆すべて腹、体の人であり、その上に相当な頭も乗っかっていた。机上専門の人はいなかった。そして与える愛情が豊かで、男も女もひるまず闘い、今を生きる人でした。

 
 第399回月例会発表(平成20年10月25日)

リヨン報告―リヨンの絹織物と日本
                                        
加藤 豊子 

 「絹の都」リヨンと日本のつながりは、開国と同時に開始された日本側からの生糸輸出に始まる。両者は絹織物と原料生糸という関係で深く結びつき、その交易関係は明治以降も続いた。多年この日仏生糸交易史を研究テーマとしてきた筆者であるが、今夏初めて、リヨンの地を踏み、リヨン絹織物史の所産に直接触れる機会を得ることができた。
 
 最も強い印象を受けたのは何と言ってもリヨン織物装飾芸術博物館である。展示された実際のリヨン絹織物の数々を目の前にして、リヨン絹織物の、日本製品とは比較を絶した、圧倒的に高度な品質を否応なく見せ付けられたからである。製糸技術力の差というだけですまされない歴然たる違いであった。もちろん筆者は製糸技術の観点からも考察を行ってきたので、trame(緯糸)とorgansin(経糸)の問題にも強い関心を抱いていたが、いかに国際的評価の高かった日本生糸も、彼の地では緯糸だけに使用され、経糸に使用されなかったことが長年の疑問であった。実際の製品を目の当たりにし、疑問の一部が氷解したのだった。

 
 数世紀にも及ぶ絹織物の歴史を有するリヨンが、19世紀前半ヨーロッパに蔓延した蚕の微粒子病による原料不足に見舞われ、代替原料を日本に求めたことはよく知られている。そこに端を発して開始された日仏間の生糸交易は幕末以降1880年代まで数量・価格(貿易高)ともに増加したこと、従来の両国生糸交流史はもっぱらこうした数量・価格(貿易高)という数値的分析や評価を通して検討を加えられてきたのではなかったか。しかし、今後は「品質」という視点から見直しを行わない限り日仏生糸交易の真の姿は捉えきれないのではないか。今回の短いリヨン訪問はこのことを痛感させた。

 
 短い滞在だったため、新資料の発掘というところまでは行けなかったのであるが、「品質」の観点からのアプローチの必要を実感できたことは、少なくとも筆者にとっては大きな収穫であったと言える。

 
 第398回月例会発表(平成20年9月27日)

クローデルが魅せられた日本
                                        
里見 貞代 

 フランス1920世紀の優れた詩人・劇作家ポール・クローデル(18681955)は、シャンパーニュ地方の下級官吏の次男として生まれたが、彫刻家の姉カミーユの強い要望により、父を単身任地に残し、1881年一家をあげてパリに移住する。姉は交際する芸術家たちを通して知ったジャポニスム、特に日本の浮世絵を青年期の弟ポールに紹介する。彼はそこに発見した「生き生きとして生命を吹き込まれた」劇的な日々の光景に強く惹かれたという。外交官として中国に滞在中、18985月から6月にかけて念願の日本観光旅行をするが、その体験と印象は「松」、「散策者」、「森の中の黄金の櫃」、「あちこちで」等のエッセイとして『東方の認識』に収められる。クローデルが次に来日するのは、駐日フランス大使の任命を受けた192111月下旬から19272月までである。この間彼は、現在流にいうならば<国際人として>異文化を全面的に受容し、そこに自己を同化し、生来のフランス的感性によってそれを再創造した。大使としての任務のかたわら、当時の日本をかなり広汎に旅行し、そこで味わう「あー」という情動的感慨を、その都度短詩の形で残している。自然の美とその背後にある超越的存在の前に、己を低くして頭を下げる日本人の敬虔な態度は、クローデルに強い印象を与えた。これらが次の任地ワシントンに向かって離日する1927年、「日本を去るに当たっての置き土産」ともいわれる『百扇帖』として新潮社から出版された金字塔である。ここに集大成される以前に出版された詞華集『四風帖』、『雉橋集』も、共に当時の京都画壇の巨匠富田渓仙との協作の成果であって、見逃すことはできない。1年の休暇を除く正味4年余りのクローデルの滞日中の文学的・芸術的偉業は、有能な翻訳者山内義雄を始め有島生馬、吉江喬松、五来欣造、ミッシェル・ルヴォン、喜多虎之助、竹内栖鳳、山元春挙その他多くの優れた日本人の資質と人間的魅力に負うところが大きく、クローデルはそこにも魅せられていたと思われる。

 

 第397回月例会発表(平成20年5月24日)

マンディアルグ作品の中の日本
                                        
中島 裕之 

 1976年、マンディアルグは三島由紀夫の『サド侯爵夫人』を翻訳、ジャン=ルイ・バロー一座によって、グランヴァルの演出で上演された。

同年の短編「1933年」は“三島の魂に”捧げられている。小説の中では具体的に三島の名は出て来ないが、主人公フォリーニョがフェラーラの街の娼館で「聖セバスティアンを演ずる」儀式(プレイ)は、手を縛られ、腹を矢で射抜かれている三島の有名な(コスプレ?) 写真「セバスチアン自演像」(撮影・篠山紀信)を思い起こさせる。

フォリーニョが夜中にホテルを抜け出したのは、隣で眠る妻の頭部を殴り潰してしまいそうな「潜在的殺人鬼の状態」から脱するためである。2度ほど語られる臓物料理(トリップ)への嗜好、それに合う、きつくて赤黒いボスコ産葡萄酒。作中突然明かされる日付、1933713日から14にかけての夜、パレルモのホテルではレーモン・ルーセルが死を迎えつつあった。死の原因には触れられていないが、睡眠薬を大量に飲む前には自らナイフで手首を切ったりしていたらしい。フェラーラ生まれのファシストで飛行士の英雄、イタロ・バルボのイメージもまた主人公にまとわりつく。

1983年の短編「薔薇の葬儀」は夫人であるボナに捧げられているが、4色の薔薇になぞらえた日本人女性たちとその女主人である白薔薇による死の儀式は三島の死を連想させる。途中、聖女たちを法悦に導いた槍刺しのために光線を導いているセラフィムが出てくる。アヴィラの聖テレサに代表される、天使によって心臓に火の矢を突き刺されて恍惚を感じる聖女のイメージは、聖セバスティアンと対になっている。

 
 第396回月例会発表(平成20年4月26日)
 
アーネスト・サトウの対日情報活動
                                        
楠家 重敏 

 イギリス人外交官サトウの幕末・明治初期の活動については彼の『一外交官の見た明治維新』、萩原延寿『遠い崖』で詳述されている。ロンドンの国立公文書館所蔵のサトウ文書には彼に関する膨大な資料がある。請求番号 PRO 30/33 1/4 ‘Translations’ と題された草稿ならびに印刷資料の1868年から翌年までの分を紹介して、情報収集者としてのサトウの役割を考えてみたい。この資料群が18681月から始まっているのは、同年11日付をもってサトウが日本語書記官に昇進したことと無関係ではない。

 草稿の筆頭は『国史略』の神代の巻の英訳である。つぎの「徳川内府(慶喜)覚書」の出典は不明であるが、サトウはこれを125日に英訳している。翌日、「討薩の表」を英訳している。幕府は1月3(陰暦129)以来の薩摩藩の罪状を列記した「討薩の表」を掲げて京都に向けて出撃した。鳥羽伏見の戦いの前日である。萩原延寿は「この日のサトウは情報将校の任務を忘れていたかにみえる」(『遠い崖』第6巻、p.160)と判断しているが、実は重要情報の英訳で多忙な一日だった。サトウは326日の Japan Herald に「ミカドの布告文」を英訳した。徳川慶喜の政権返上と新政権への政権移譲の確認である。420日付の  Japan Heraldの号外に三職八局に記事が含まれる「日本の新しい政治体制」を英訳した。内外新聞第7号の「大久保市蔵(利通)の建白書」も翻訳したが、これは大坂遷都論である。

 このようにサトウはイギリス外務省などに送った報告書ばかりではなく、横浜の英字新聞(Japan Times, Japan Herald) や日本で創刊されたばかりの中外新聞、江湖新聞という幕府系の新聞、あるいは維新政府系の太政官日誌を英訳して、これらの新聞から新しい日本の動向を探っている。いっぽう、薩摩藩の西郷隆盛、長州藩の伊藤博文、幕府の勝海舟らと親交を結び、多方面から確度の高い情報をサトウは収集した。サトウが所属する駐日イギリス公使館以外にこうした対日情報活動をおこなえる在日外交団はなかった。イギリスについで情報量が多いアメリカでも日本の新聞を英訳した例は明治11年の大久保利通暗殺を報じた新聞記事など数例に限られる。フランス外交官の活動はスタッフの不足もあり狭い範囲であったので、幕府側からしか情報がとれず、いきおい親幕府路線をとらざるを得なかった。イギリス公使館のマルチな活動とは好対照である。

 
第395回月例発表(平成20年3月29日)
  
清水 卯三郎
―1867年のパリ万博を中心に―
                                        
澤 護 

 清水卯三郎(志みづ うさぶらう)は1867年のパリ万博に際し、商人としてただひとり幕府の出品に匹敵する1180点もの品を出し、帰国の際には石版印刷機や凸版印刷機、陶器の着色顔料、礦物標本、西洋花火などを持ち帰り、さらにフランス図書など洋書の輸入を早くから実践し、国語の改良問題で「平仮名ノ説」を発表するなど、実に幅広い活動をしながら波乱の一生を送った人物であった。
 
印刷機械、歯科器具と歯科関係の著書や雑誌の発行、最初の新聞活字、西洋陶器顔料、西洋花火の紹介とそれに関する翻訳など、ものの始めに関する事蹟を追跡してみると、その多くの濫觴は清水卯三郎にぶつかる。
 

 今回の発表は、まず卯三郎の名が「うさぶらう」であるのか「うさお」であるのかから始まり、一部で言われている、卯三郎がパリに送り込んだ3人の芸者が、本当にパリを訪れた日本人女性の最初の人たちであったのかなどから話を展開した。

 
3人の芸者と一足先に帰国することになった初代の駅逓正となる杉浦 讓との関連、そこから派生して渋澤栄一が持ち帰った1枚のフランスの切手が、日本最初の郵便切手の範となり、2センチ四方の正方形の切手の発行につながった。
 
一方、1868年にパリではレオン・ド・ロニー (Léon de Rosny) が日本語新聞「よのうはさ」を発行したが、この記事内容から判断し、この記事はすべて清水卯三郎が書いたものだと、「遠近新聞」と「横浜新報 もしほ草」を引き合いにだして話した。
 
清水卯三郎がたまたま買い求めてきた足踏印刷機が、明治5221(1872.3.29)に第1号が発刊される「東京日々新聞」に関連するものだと話し終った段階で、持ち時間の1時間30分が経過した。
 
したがって、発表を予定していた石版印刷機、医療器具、西洋花火への関心、明六社と「明六雑誌」の関わり、洋書の輸入と学術図書の発行に関する瑞穂屋などへの言及はできなかった。

  
 第394回月例会発表(平成20年2月23日)
 
カミーユ・クローデルと日本-その出会い-

                                        
よしかわ つねこ 
 カミーユ・クローデル(1864-1943)には、78歳のその生涯の中で、彼女と日本との接点が7回ほどある。ここでは彼女の年譜を通して、それらの事情を辿ってみた。

19歳。1883年、彼女は家族を説得してパリに上京。同年パリのプティ画廊で催された「日本美術回顧展」で、カミーユは、生まれて初めて東洋の日本美術を鑑賞したのである。
 
25歳。1889年開催のパリ万博に、彼女はドビュッシーと共に訪れた。ドビュッシーは、北斎の版画を持っていた。彼女はその〈富嶽三十六景 神奈川沖浪裏〉に感動。その影響は、彼女の後年の作品〈波〉に反映。彼女は北斎を通して、初めて日本の美術に触れたのであった。
 
26歳。1890年、パリのエコール・デ・ボザールで、1619世紀の浮世絵版画、725点が展示され、彼女もこの会場を観て回った。
 
30歳。1894年、彼女は作家ドーデ (Alphonse Daudet 1840-97) の夕食会で、ゴンクール (Edmond de Goncourt 1822-96) と出会う。彼は、「大輪の日本の花を刺繍した麻の袖無し胴着を着ていた」と、カミーユの印象をその夜の日記に書き記した。
 
31歳。18953月、作家ルナール (Jules Renard 1864-1910) は、アンジュ河岸のクローデル家の夕食会に招かれた日のことを、「日本人の客がいた」と書いた。カミーユの彫刻〈日本人〉のモデルだったと思われる。日本人画学生だったようだ。
 
36歳。1900年、この年のパリ万博にカミーユは、〈もの思い〉(大理石像)他、全3点を出品した。この年の万博会場には、大勢の日本人が訪館している。収入ゼロで困窮。
 
38歳。1902年。カミーユますます困窮。

 以下は、私のノンフィクション「カミーユという女‐ロダンへの愛と狂気‐」(日本文化大学『柏樹論叢』2004年刊)よりの抜粋である。

「その頃、パリにやってきた日本人の中で、背筋を伸ばしている一人の男がいた。林忠正という画商である。彼は生涯を通じて、日本の文化を誇っていた男だった。」

「『お金を借用させていただけませんでしょうか』とカミーユ。・・・12月の下旬、林忠正から『300フランを用立てましょう』と返事がきた。・・・この借金のおかげでカミーユは〈運命の女神〉の再製作に取りかかった。」

  
 第393回月例会発表(平成20年1月26日)
 
酒井雄三郎へのアプローチ

                                        
平野 実 

高野静子さんは『蘇峰とその時代-よせられた書簡から-』(中央公論社1988年)のなかで、勝海舟など18人の人物をとりあげているが、酒井以外はいずれも超大物である。なぜ酒井なのか-その動機は、明治22(1889)12月、万博が閉幕したパリで書かれた長文の手紙にある。この手紙は「人間酒井」を知るための貴重な史料であるが、徳富蘇峰を金銭面でも頼りにしていたことを明かすものでもある。酒井は蘇峰の『国民之友』に原則として毎月通信を送るので月給を支給してほしいと懇願している。著者は「酒井の願いを蘇峰が受け入れたであろうことは、掲載された多くの通信によって推察される」としているが、この「金策の件」をとりさげている翌年3月の酒井の手紙をなぜか見逃している。高野さんの父親は蘇峰の秘書で、遺贈された蘇峰宛書簡をもとに記念館をつくった。父親の遺志をついだ高野さんは学芸員の資格をとり、書簡の整理に情熱を傾けた。蘇峰は名づけ親で、死の床となったベッドを形見として贈られている。

木々康子さんは「19世紀末のパリと日本-林忠正をめぐって-⑩」(『ふらんす』白水社19991月号)で、酒井の墜落死をとりあげている。博覧会事務官長の林忠正が凶漢を雇って殺させたという噂がたったが、木々さんは義理の祖父にかけられたこの疑惑にこだわりつづけてきた。木村毅が「窓際に椅子を寄せてその上にスリッパが片方だけ載っていた」と書いたのを「きちんとスリッパが揃えてあった」としている。また、失恋が自殺の原因だという噂を報じた『フィガロ』の記事を証拠としているが、真偽はさておき、ニュースソースが林忠正であろうことは記事内容から察しがつく。ホームページには『「林憎し」の中傷は、百年を経た今も消えることはない』と記されている。

山田央子さんは青山学院大学法学部准教授で、専攻は日本政治思想史である。一昨年、『酒井雄三郎と「社会」への視点』『酒井雄三郎における「近世文明論」と社会主義批判-共和主義思想との関連をめぐって』と題する論文をあいついで発表した。専門の立場から酒井の思想に的を絞ってアプローチしている。
  
 第392回月例会発表(平成19年12月22日)
 
我が祖父 川島忠之助
                                        川島 瑞枝 
 学者でもなく文学者でもなく生涯を銀行家として過ごした川島忠之助は、フランス文学の本邦初めての翻訳者として大正末期に偶然世に出た。彼は嘉永6(1853)、ペリー来航の年に江戸本所で幕府勘定方役人の次男として生まれ、父の任地飛騨高山と江戸を行き来して10歳まで過ごした。しかし幕府瓦解と父の死後、すでにフランス語通辞を務めていた従兄中島才吉のつてにより横須賀製鉄所の学校に入り、一回生として卒業。その間フランス語と英語を叩き込まれる。陸奥宗光の口利きで富岡製糸場に通辞として就職しブリューナと出会う。

明治9(1876)、明治政府の抵当流れの蚕卵紙をイタリアに売り込みに行く人々の通訳兼ガイドとして世界一周の旅に出る。この旅行中、ジュール・ヴェルヌのアメリカ版『八十日間世界一周』を買う。彼はフランス語の原文をパリにいた従兄から送ってもらい読んでいたが、アメリカ版で付け加えられた箇所が面白く、それを加えて明治11(1878)自家出版する。

明治15(1882)、創立2年目の横浜正金銀行に就職、直ちにリヨン事務所に赴任した。それ以後13年間、妻を迎えに一度帰国しただけで、日本に200通近い手紙を送り、自分の状況をしらせている。それらは今、我が家に膨大な写真と共に残されている。一時帰国の折、勝海舟から元公使ロッシュ宛の手紙を預かったり、香港では旧知のブリューナとの再会を果たしたりしている。しかし、リヨンで3人の子を産んだ妻方子が結核となり、急遽帰国の途につくが、上海沖で妻を失う。その後、重役の地位につき、ボンベイ支店長を務めるが、その間、高橋是清と親交を結び、是清の自伝にも登場する。再婚した彼は、明治36(1903)初めての男子順平を授かる。これが後に仏文学者となる。この妻もスペイン風邪で急死。銀行退職後は静かに好きなフランス文学と漢書三昧の日々を送り、昭和13(1938)、パリ祭の日に永眠する。生涯ハイカラ気質と先祖から受けついだ武士気質が同居した人生だった。

  
 第391回月例会発表(平成19年11月24日)
 
明治期におけるフランスの評価
―日本人のもったフランスのイメージ―


                                        小林 善彦 

日本を近代化するためにお手本とした先進国は、主に英米独仏の諸国と考えられているが、実はそのうちフランスの比重は非常に軽い。いわゆる旧制高等学校での外国語教育を見ると、ほとんどの生徒は英語とドイツ語を学び、フランス語を学ぶ者は23パーセントに過ぎなかった。この事情は私立大学、国立の高等専門学校でもほぼ同じであった。明治のごくはじめの留学生や旧制一高では、フランス語第一語学の学生の方が、ドイツ語を学ぶ者よりも多かったのに、明治の末ごろからはドイツ語が圧倒的になる。とくに官費留学生の行く先は、そのほとんどがドイツへ行っている。

筆者が最初に勤めた学習院大学でも、安倍能成院長はフランス語を「軽佻浮薄な国の言語だ」といって、物議をかもしたことがあった。安倍氏のほかにも、同じような評価をした中学校の教師がいた。フランスに対するこの過小評価は、どこから起こったのだろうか。ふと思いついて、明治、大正時代の中学の「世界地理」の教科書で、英国と独逸と仏蘭西の「住民・国民」の項目を調べてみた。私の予想どおり、どの教科書も英国人、ドイツ人にはそれぞれ「自尊の心高く、着実、堅忍」とか「勤倹尚武、学術に長じ」などと賞賛しているが、フランス人となると、「軽佻浮薄、奢侈で忍耐に欠く」と批判的である。

フランスに対するこの否定的な評価は、どこから起こったのであろうか。教科書の著者たちは多分フランス語を知らず、フランスを見たこともなかっただろう。安倍学習院長はドイツに留学したが、フランスには数日行っただけだという。ほとんど見たこともないフランスのことを、口をそろえて批判しているのだ。これにはなにかもとがあると思い、久米邦武の『米欧回覧実記』を見ると、さきの教科書と同じ評価に出会った。これが起源であろうか。
 
 第390回月例会発表(平成19年10月27日)
 
アランの生涯と邦訳書

                                        高村 雅一 
 アランの邦訳書は、1933年(昭和8年)に作品社から出版された桑原武夫訳『散文論』が嚆矢である。本書は『芸術論集』(Système des Beaux-Arts,1920)の第10節の抄訳であった。雑誌『新フランス評論』(NRF)に毎号2頁のエッセイとして「アランのプロポ」(Propos d’Alain)が掲載されていたが、その翻訳を三好達治の勧めで雑誌『作品』に19335月号から連載し、同年末に99頁の小冊子として出版されたものが本書であった。その後、桑原は1939(昭和14年)119日にル・ヴェジネのアラン宅を訪問している。

 アランの邦訳書の2冊目は、1936年(昭和11年)に創元社から出版された小林秀雄訳『精神と情熱に関する81章』(Quatre-vingt-un chapitres sur l’Esprit et les Passions,1917)であった。本書は哲学概論的内容と言えるもので、アラン自身が第一次世界大戦へ参戦中に執筆したものであった。哲学はアランにとって学問研究の対象ではなく、〈生きること〉を対象とするものであったため、その思想は文学、芸術、音楽から政治、経済、宗教、教育などの広範な領域に及んでいる。

しかし、1937年(昭和12年)に創元社から出版されアランの邦訳書の3冊目となった水野成夫・浅野晃共訳『政治と文化』(Propos de Politique,1934)は、国会図書館で検索することもできず現代の私たちが眼にすることは殆どない。アランは思想を体系化させることがなく、ソクラテスのように人が思考するための善き教育者であり、実際にその生涯もリセの一教師として終えている。創作の方法としては、殆ど現象学的に事物や存在へ接近する方法、つまり具象化された事象に基づいて思考して書くことにあり、その出発点となった『一ノルマンディー人のプロポ』(Propos d’un Normand)の完全版(3083章・全9巻)は、やっと2001年にアラン研究所Institut Alain)から出版されたばかりである。

 
 第389回月例会発表(平成19年9月22日)
 
海を越えたハイク―フランスとメキシコの場合―

                                        市川 慎一
 
 『日仏交流』第13号(2007年)誌上に、同名の小文を書いたばかりなので、口頭発表でも内容が部分的に重複するのはやむをえない。
 ポール=ルイ・クーシュー(1879-1959)は最初の来日(1904年)から帰国後、すぐさま友人らとセーヌ河を舞台に吟行の船旅を決行し、フランス語による連歌を試みている(Cf.『川の流れに沿って』 Au fil de l'eau. 1905)。彼のおかげで、フランスは俳句先進国となったといえよう。もちろんクーシューとてチェンバレンやアストンらの先行的研究を踏まえて、卓越した俳句論を含む著作『アジアの賢人と詩人』(1916年、邦訳あり)を上梓した。
 クーシューは俳句を次のように理解した。
1)俳句は日本人が長らく愛唱してきた和歌(彼はutaと表記)とは異なり、和歌の理解には中国古典などの教養が必要なのに、俳句は庶民的な詩型であること。
2)俳句は瞬間的な印象をつづる詩型であること(そのため、蕪村の俳句から絵画的な名吟を69句も選び、仏訳している)。
 メキシコからは、1900年にホセ=ファン・タブラーダ(1871-1945)が渡来し、数ヶ月滞在したとされる。ところがサンフランシスコ発太平洋横断客船Empress of Japanに乗船したとする研究者がいる一方で、詩人が利用した客船は「レドウス」号と特定する専門家(田辺厚子氏)もいて、この点未詳。さらに日本からメキシコの雑誌に「和歌の翻案を一五ほど送った」(同氏)と指摘されるだけで、詩人と俳句の関係もはっきりしない。後(1911年)にタブラーダは渡仏するが、ジャポニズムの余韻のただようパリで俳句に接したのではないだろうか―これが筆者の今後のテーマとなりそうだ。(仏語に堪能だった彼はゴンクールの著作等を西訳しているが、筆者の調べた限りではクーシューに言及していないようだ。)

                                         

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